若いふたりが受け継ぐ、醍醐窯4代の歴史
太閤・秀吉が晩年に花見の宴を催したことで知られる京都伏見・醍醐寺。
そのそばで1933年に誕生した「醍醐窯」は、千利休が愛した「楽焼」の伝統を受け継ぐ窯です。初代島荷平は、この楽焼の技術を生かして人形をつくっていましたが、2代目が茶懐石で使われる器づくりへと転向。型を用いて四季折々の風物詩を表現した器が、醍醐窯の看板商品となりました。そんな窯の4代目を、島静香さんが20代にして継ぐことになったのは2015年のこと。思いがけない先代の急死を受けての決心でした。
「父の死はあまりにも突然なことだったので、客先からの注文もまだありましたし、そのご要望に応えたいと思ったんですね。
小さい頃から父の仕事場を見ていましたから、継ぐのは私しかいない、と思って前職も辞めて陶芸の学校に入り直したんです」(島)
決断に迷いはなかったという島さん。「ダメだったら自分で窯を終わらせてもいい。とにかくやれるだけやってみよう」という気持ちで、新たな第一歩を踏み出しました。そして陶芸の学校で同級生として出会ったのが、田中咲紀さん。学校を卒業後、島さんは家業へ、田中さんは別の窯元へ、と一旦は別々の道を進みますが、1年ほど経った頃、島さんが田中さんを誘って、2人で窯を切り盛りしていくことになりました。
「私は彼女と違って普通のサラリーマン家庭で育ったんですが、つくることが好きだったんですね。前職は建築関係の仕事をしていたんですが、もっと自分の手の内でつくれるものを、と思って、陶芸の学校に入るために東京から京都に来たんです」(田中)
「給料を十分に払えるところまではまだまだだけど、2人で頑張ってみないか、って言ったら、快く“やる”って言ってくれたんですよね。そうやって2人で再スタートしたのが2017年のことです」(島)
千利休が愛した楽焼、その流れを汲んで
ふたりが手がける「楽焼」の源流は、かつて安土桃山時代に、千利休が焼物師・長次郎につくらせたものにあります。粗く空気を多く含む「楽土」を使い、800~900℃程度の比較的低い温度で焼成するのが特長。風合いが柔らかで断熱性にすぐれ、熱いお茶を入れても手で持ちやすいという利点があります。その製造の様子を見せていただくことにしました。
「まず土を型取りして、ベースの色を塗ってから素焼きします。その上から、楽焼の特長である“白絵(しらえ)”という白化粧をほどこします。それから釉薬をかけて本焼き。普通の焼きものが、焼成後、温度が下がるのを待ってから窯出しするのと違って、楽焼は焼きあがってすぐの熱いうちに取り出すんです」(島)
真っ赤に熱せられた窯から、器の並んだ台が島さんの手で取り出されると、田中さんが手際よく器をひとつずつ台から下ろしていきます。この時の器は、まるで飴細工のように柔らかな状態。2人がかりで素早くこの作業をこなさないと、器同士がくっついてしまうのだといいます。急速な温度変化にさらされた器からは、「ピンピンピン……」という微かな音色が聞こえて、釉薬に「貫入」が生じていることがわかります。
コロナ禍のピンチから、新たなチャレンジへ
2人で再スタートを切って3年が経とうという時に、醍醐窯に降りかかったのがコロナ禍のピンチでした。飲食店からの注文がパタッとなくなってしまう中で感じたのは、特定業種が頼みの綱であることの危うさでした。
「その時に、せっかく若い2人でやってるんだから、島荷平ではない何か別のものをしたいねって話になったんですが、その時に商工会議所さんにご紹介いただいたのが、“あたらしきもの京都”のプロジェクトでした」(島)
「あたらしきもの京都」は、京都商工会議所とファッション京都推進協議会が、京都府の支援を受けて開催したものづくりプロジェクトで、私はそのプロデューサーを委任されていました。セールスアドバイザーやデザイナーと議論を重ねて新商品開発に取り組むという経験を通して、醍醐窯のふたりは「自分たちの強み」と改めて向き合うことになりました。
「最初は、伝統的な技術を使ってスカルのような今どきのものをつくり出すというアイデアがあって、試作もしてみたんです。
でも実際につくってみると、そういったものより彼女のおじいさんが手がけていた干支の蓋ものなんかの方が、むしろ面白いんじゃないかとなって……」(田中)
「そこから方向転換して、琳派をモチーフにした幻獣シリーズを考えたりもしましたが、最終的には、昔から京都に伝わる“四神”(東西南北を守護する青龍、白虎、朱雀、玄武という4つの聖獣)に、麒麟を加えた“五神”にたどり着きました」(島)
2代目が遺した干支の香味入れを現代感覚でアレンジした「五神」は、アクセサリーを入れたり玄関飾りにしたりと多彩に使えるインテリア小物。5つの聖獣が醸し出す、ちょっと隙のある可愛らしさは、醍醐窯が代々守り続けてきたDNAと楽焼の柔らかさが相まって生まれるものなのでしょう。この「五神」をきっかけに、2人は新たに「RAKUAMI」ブランドを立ち上げ、これまでなかった百貨店やミュージアムショップなどといった販路を切り開いてゆくことになりました。
「RAKUAMI」のブランド名は、初代島荷平が文学博士吉沢義則氏から命名された雅号「楽阿弥」からとったもの。
楽焼と醍醐窯という原点はそのままに、今の時代に合ったものを、もっと自由に発信していこうとする意志が込められています。
「暮らしに寄り添う楽焼」で、京都から世界へ。
絵が得意な田中さんがデザイン画を描き、そこに島さんが「醍醐窯らしさ」というDNAを吹き込んでいくという共同作業で、可能性を広げてきたふたり。「五神」「TORIDORI」に続く第3弾のシリーズとして、これまでの割烹食器とは違う日常の器「AKA to KURO」を、デザイナーとのコラボでつくり上げました。楽焼らしい白絵をほどこしてあることと、昔から醍醐窯でつくってきたものにヒントを得て、お皿にも脚がついているのが特長です。
「ずっとふたりだけの狭い世界でやってきましたが、“あたらしきもの京都”に参加させていただいてからは、自分たちのものづくりを俯瞰で見られるようになりました。楽焼って土が粗いから温かみは出るんですけど、どうしても磁器などに比べると欠けやすくて、一般の方には扱いにくいものだと、私はずっと思ってたんです。でも、そうではなくて、むしろ大事に使ってもらえるものをつくればいいんだと今は思っています。古びてなお味になるというか、時代がつく、というような楽しみもあるとお伝えできれば……」(島)
「自分たちが思っている以上に、私たちのつくるものに価値を見出してくださる方が多いということに気づいたのが、一番大きい変化ですね」(田中)
「これからは、守りの島荷平と攻めのRAKUAMIっていう2つを行き来しながらやっていきたいですし、RAKUAMIでは京都を飛び出して世界に行けたら、っていうイメージも見えてきました」(島)
楽焼は伝統工芸品だと言われますが、千利休が500年以上前に楽焼を生み出した当時は、それまでにない最先端のものだったはずです。
それが文化として定着し、伝統になったのは、その後に続く職人たちが、それぞれの時代のニーズに応えてアップデートを繰り返してきたからに他なりません。楽焼の系譜の最先端にいる彼女たちにも同様に、革新の精神を忘れず、まだ広く知られていない楽焼の魅力を世界に発信するものづくりを続けてほしい。そんなふうに思います。