京で発展した、人形づくりの繊細な技とともに
平安時代以降、公家が集まる京都御所で珍重され、独自の発展を遂げた「京人形」。
西陣織など京都ならではの伝統的織物を使用している点に加え、工程が細かく分業化されているのが特徴です。
顔だけを作る「かしら師」、手足を専門とする「手足師」、そして髪の毛をつける「結髪師」といった専門職が仕事をリレーし、最後にバトンを受け取るのが「着付師」。着付師が胴体をつくり、豪華な絹織物で仕立てた衣裳を着せつけて、ようやく人形が完成します。
三宅玄祥(みやけ げんしょう)さんは、そんな着付師の工房「京人形み彌け」の2代目を担う伝統工芸士です。
「大量生産型の人形と違い、京人形は複数のスペシャリストが連携して少量で品質の高いものを作っているのが特徴ですね。
私の父は、中学卒業後すぐに京人形司の師匠に弟子入りして修行を積み、1967年に独立開業したんです」
工房でコツコツと京人形をつくり続けて15年ほど経った頃、三宅さんの心に湧き上がってきたのは「着付師としての技術を何かほかのものづくりに生かしてみたい」という思い。たまたま京都で「ものづくりルネッサンスコンペティション」という公募があるのを知り、チャレンジしてみようと思い立ちます。
「伝統工芸を生かした新しいものづくりのコンテストでしたが、自分のオリジナル作品を人に見てもらいたくて、面白半分みたいな感じで応募したんです。最初に考えたのは、甲冑の小札(こざね)をイメージしたパソコンケースでした」
甲冑らしさを生かし、デザイナーと磨き上げたものづくり
五月人形の甲冑は、小札と呼ばれる金属の板を組紐でつないでつくりますが、三宅さんはこの技法を生かそうと考えました。
ただ、当時は、本格的な金属の板の代わりに、四角く裁断した革の生地を組み紐でつなぐ、より簡易な方法でのトライでした。
仕事を終えた夜に、ひとり試行錯誤を続けながら完成させた試作品第1号は、惜しくも賞を逃しましたが、三宅さんの心には「まだやれる」という確信が残ったそうです。ただ、ひとりで取り組むには限界も感じて、何かあともう一歩きっかけがあればと感じながら仕事を続けていたようです。
「それで、大阪の中小企業基盤整備機構近畿本部にその試作品を持ち込んで、新商品開発のサポートをしていただけないかとお願いに行ったんです。そこで紹介していただいたのが日吉屋の西堀さんでした。」
ちょうどその年は、京都市が伝統工芸のつくり手を対象に海外向けの商品開発と販路開拓を目指す海外事業を実施する事になっており、私はその海外事業のコーディネーターに任命され、「京都コンテンポラリー - Kyoto Contemporary-」と名付けた事業を立ち上げる事になりました。
人形の甲冑づくりの技法をバッグに生かすという発想を面白いと感じた私は、そこにエントリーしないかと三宅さんをお誘いしました。結果、見事審査を通過した三宅さんは、デザイナーみやけかずしげ氏と組んで新しいものづくりに挑むことに。デザイナーから最初に出された要望は、より甲冑らしさが感じられるよう小札を金属製にすることでした。そこで三宅さんは試作品第2号として、アルミのプレートを組紐でつないだバッグを製作。この製品を持って、三宅さんは初めてのパリ展示会に臨むことになったのです。
パリ出展で与えたインパクトを自信に変えて
パリに持ち込まれた製品の名前は「サムライアーマーバッグ」。実物の甲冑を着て会場に立った三宅さんに対して、現地での反響はすこぶる大きく「サムライクリエイター」の異名もついたほどでした。もちろん、決して物珍しさだけで注目を集めたわけではありません。フランス人が賞賛したのは、伝統文化を再解釈して新しくデザインし直した、そのクリエイティビティでした。
「あの時のバッグは、裏地もついていないし、クオリティ自体は決して満足できるものではなかったんですけども、フランスの皆さんからすごく好評をいただいたもんですから、もっと商品として質の高いものを作れれば、必ず売れるものになるだろうという確信を持ちました。1日中甲冑を着てたら、気を張りすぎたのか次の日には熱を出して寝込んでしまいましたけども(笑)」
滞在中は、同じ展示会に出展する職人さんたちみんなでパリ市内の貸しアパートをシェアし、自炊して同じ釜の飯を食いながら、
連日一緒に展示会場に乗り込むという熱を帯びた日々を過ごしました。期間中はボイラーが止まり、お湯のシャワーが出なくなったり、三宅さん以外にも風邪を引いて倒れる方が出たりと、様々なハプニングに見舞われましたが、それも今ではよい思い出です。
パリで大きな手応えを得た三宅さんは、帰国後さらなるブラッシュアップを続け、翌年には現在の「サムライアーマーバッグ」の仕様を完成させました。バッグとしての完成度にこだわると、やはり「餅は餅屋」というわけで、革鞄製造工場と協業することに決定。三宅さんの工房では、薄く軽いアルミの小札を組紐でレザーに綴じ付ける工程を行います。
「この綴じ方もデザイナーさんのアドバイスを取り入れているんですよ。本来の甲冑は小札をつなぐ組紐が×(バッテン)になっていますが、それをそのままバッグでやると、見た目の印象が非常にうるさくなってしまう。そこでバッグ表面を紐がまっすぐ垂直・平行に走るようにしています」
職人としてはやはり自分の技術を前に出したくなるものですが、そこで主張を抑え、製品としてのトータルなデザイン見極めはプロに判断を委ねる。そんな柔軟さも三宅さんの強みだったと言えます。
常にアップデートし続ける、その精神こそ職人の真髄
「10年前の僕にとっては、海外の展示会で自分の作品を展示してもらうなんて、夢のような話だったもんですから、もう世界が180度変わるみたいな、ダイナミックな経験をさせてもらったなって思います。サムライバックを作る前と後では、お付き合いしている人も変わりましたし、バッグの話がきっかけで人形が売れたり、人形の話がきっかけでバッグが売れたりとかいう相乗効果もあるんですよ」
今では伝統の京人形づくりに加えて、バッグ製造が家業を支える第二の柱となった「京人形み彌け」。新しいことにチャレンジして軌道に乗せたという経験値は、人形づくりにおいてもいい影響を及ぼしているようです。
「最近では、デザイナーさんとコラボして収納の形まで考えた雛人形をつくったのですが、それをSNSで見てくださったお客様からお問い合わせが増えています。京都コンテンポラリーを経験したおかげで、そういう新しいチャレンジに対して躊躇しなくなりましたし、あの時の苦労を思えば、多少のことは乗り切れるという耐性もついたかなと思います」
私も常々思うのですが、変化を恐れず新しいことに挑んでいく精神は、本来、われわれ職人が持っていたはずのものではないでしょうか。京人形だって、幾人もの職人のトライアルが積み重なって、今の姿になったはずです。なのに現代は、いつの間にか職人が伝統というものに縛られて、変化をネガティブなことのように感じている、そこに問題があると思うのです。そんな中で、人形司の技をバッグという異分野に生かした三宅さんのような存在に、私は希望を見出しています。
「当初は持ち出しも多かったですし、こんなんやってていいのかなっていう不安もあったんですけど、そこを耐え忍んで継続してこられたし、おかげさまで結果もついてきた。それはやっぱり、しっかりしたコンセプトに立ってものづくりをする下地を作って
もらった、あの京都コンテンポラリーの指導とのおかげです。あとは同じ1期生で苦労をともにした仲間の存在も大きいですね」
諦めない力で道を開いた三宅さん。その姿はこれからも他の職人たちに勇気を与えることでしょう。